三位殿に申すべきことあつて、忠度が帰り参つて候ふ。
」と言って、 馬にうち乗り、 甲 かぶと の 緒 お を 締 し め、西をさいてぞ、歩ませ給ふ。
と思うにも、ただ尽きせぬ物は涙ばかりである• とりわけ武門の者であれば、二心を持つのを恥とする• 京を出たときほどではなくとも、これも名残は惜しいものだった• 2. 緒言によれば、上記の平家物語は、元和7年刊行の片仮名整版の流布本平 家物語を底本とし、寛永3年(刊記なし、推定)及び万治2年の片仮名整版本、 寛永3年、正保3年、明暦2年の各平仮名整版本、片仮名古活字本、長門本 (明治39年翻刻本)、延慶本(昭和10年翻刻本)を参照して校訂したもので、寛 文以降の諸本は取らなかった、とのことです。
平大納言時忠殿は、山崎関戸院に安徳天皇の御輿を据えさせ、男山の方を伏し拝み• さても、ただ今の御渡りこそ、情けもすぐれて深う、あはれもことに思ひ知られて、感涙押さへがたう候へ」 とのたまへば、薩摩守喜びて、 「今は西海(さいかい)の波の底に沈まば沈め、山野(さんや)に屍(かばね)をさらさばさらせ、憂き世に思ひ置くこと候はず。
義仲は平家軍を倶利伽羅峠の戦いで破り、京の都に入ります。
生捕りにされた重衡は、関東に下向し頼朝と対峙し立派な 態度に、頼朝や鎌倉の御家人たちは感心しました。
戦略としてまず義仲を追討し、次いで頼朝を討とうと決まり、四月十七日、平維盛、通盛を大将軍とする、十万余騎の義仲追討軍が北陸道へ向かいました。