鶴亀株式会社の大山鶴蔵社長は、まだ15歳だという少年・寛治を一時的に鶴亀家庭劇に預けるように命令。
亡くなる3日前には「中座」に行きたいと妻と共に夜遅くに行ったそうです。
本名の稲垣完治は、これ以上、子供が生まれないようにというにという意味を込めて、「完治」と名付けられた。
松竹新喜劇はテレビとの相乗効果で大きく飛躍し、黄金期を築きました。
藤山寛美はテレビの仕事で忙しくなり、女遊びをする暇が無くなっても、借金は勝手に増えていくうえ、出資先の倒産や不渡り、手形の持ち逃げなども重なり、借金は4500万円となっていたのだ。
藤山寛美と渥美清。
こうして、藤山寛美は役者の道に入り、昭和9年1月、5歳で初舞台を踏んで子役としてデビューした。