政職と村重は、すでに「反信長」で繋がっていたのである。
官兵衛の策を借りて上月城に潜入は成功したものの、勝久らの玉砕の意思は固く、説得は聞き入れられなかった。
8月、別所氏に呼応した西向かいの、・を攻めている• 斎藤家滅亡後、度重なる藤吉郎(秀吉)の説得をうけ信長の家臣(実質は藤吉郎の家臣)となる。
豊臣秀吉は、続けて「何もない日にお前を呼んで密談をすれば、怪しまれて面倒ごとを起こすことになりかねない。
自ら武器を持ち防戦するも圧倒的な兵力差に為す術もなく、炎に包まれる部屋の中で「」の一節を謡い、自害して果てる。
そのお紺が亡くなった後は毛利に寝返り、村重を説得に行った官兵衛を暗殺するよう村重に依頼する。
しかし、この松寿丸は13歳で亡くなっている。